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忠犬は主の夜に啼く ――龍ヶ嬢司と近衛扇言
一
その夜、龍ヶ嬢の屋敷には、朝からずっと雨が降り続いていた。
庭に面した大窓を、太い雨脚がひっきりなしに叩いている。分厚いカーテンを閉めきってもなお、遠くで低く唸る雷の音が床を伝ってくるようで、近衛扇言は廊下の常夜灯の下、いつもより一歩だけ主の寝室へ近い位置に立っていた。
龍ヶ嬢司――彼女が仕える、龍ヶ嬢家のひとり娘。
側近であり、ボディーガードであり、そして扇言自身が、誰にも言えずに持て余している感情の、たったひとつの宛先。
龍ヶ嬢家に召し抱えられて、もう三年になる。名家の令嬢を護るという仕事に誇りを持っていたはずなのに、いつからだろう。この人の笑顔を一日見られないと、胸のどこかがすうすうと寒くなるようになったのは。凛としているのに、ふとした瞬間に子供みたいな顔を見せる主のことを、護衛としてではなく、ひとりの女として見つめてしまうようになったのは。
いけない感情だと、わかっている。扇言は使用人で、司はお嬢様だ。分をわきまえなければならない。だから最近は、わざと距離を取っていた。護衛という名の鎧を、必死で自分に着せて。近づきすぎて、この気持ちがばれてしまうのが怖かった。
「扇言ぉ……起きてる?」
寝室の扉が、内側から遠慮がちに細く開いた。隙間から覗いたのは、湯上がりの上気した頬と、まだ半乾きの、濡れた黒髪。ふだんは龍ヶ嬢家の令嬢として背筋を伸ばしているくせに、こういう雨の夜になると、司はまるきり心細い子猫みたいな顔をする。
「起きておりますよ、司様。……雷、怖いんですか?」
「こ、怖くなんかないわよっ。ただ……その、ひとりだと、なんだか眠れなくて」
言い訳がましく唇を尖らせる横顔に、扇言はつい口元をほころばせてしまう。この、素直じゃないくせに、全部が全部、顔に出てしまうところ。龍ヶ嬢家の娘としての誇りと、年相応の甘えたがりとが、いつもこの人の中でせめぎ合っている。そして負けるのはたいてい、誇りのほうだ。
「ふふ。じゃあ、私が朝までお側におりましょうか?」
「……別に。扇言が、そうしたいって言うなら、許してあげてもいいけど」
「はいはい。仰せのままに、お嬢様」
うやうやしく一礼してみせると、司はぷいと顔を背けたくせに、扉を大きく開けて扇言を招き入れた。その手が、通り過ぎざま、扇言のパジャマの裾をきゅっと摘まんでいたことに、本人は気づいていない。
――こういうところに、いつも、心臓を鷲掴みにされる。
広い寝室は、間接照明だけがほのかに灯っていた。天蓋つきの大きなベッドの端に、司がぽすんと腰を下ろす。細い肩、白いうなじ、パジャマの襟からのぞく鎖骨。それらを視界に入れないよう、扇言はことさらに事務的な顔をつくって、床に置かれたタオルを取り上げた。
「司様、また髪をきちんと乾かさずに出てきましたね。湯冷めして風邪をひかれたら、私が家令に叱られるんですから」
「うるさいわね。誰も叱ったりしないわよ。……扇言が心配性なだけでしょ」
「そうですよ。私は司様のことになると、どうしようもなく心配性になってしまうんです」
軽口のつもりだった。けれど、口にしてしまってから、思いのほか本音の色が濃くにじんでしまって、扇言は慌ててタオルで司の頭をわしゃわしゃと覆い隠した。
「わっ、ちょっ、乱暴にしないでよっ」
「はいはい。じっとしててくださいね」
タオル越しに、司の細い肩が笑って揺れる。石鹸の甘い匂いと、湯上がりのぬくもりが、指の先から扇言の腕に染み込んでくる。何百回とこなしてきたはずの世話が、雨の夜というだけで、どうしてこんなにも特別なものに感じられるのだろう。窓の外の雨音が、まるでこの部屋をぐるりと囲って、世界からふたりだけを切り離してくれているみたいだった。
髪を梳く指の動きが、少しずつ、ゆっくりになっていく。
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